かいてるひと:似非原( えせはら あっと じーめーる。こむ ) 
ヘンリーダーガーというアウトサイダーアーティストがいる。彼に関しては様々なことが言われていて、それらに関して言うことは、特にはない。自分として興味深いのは、彼の表現方法自体が、その根っことして、ポップアートと親和性が高いのではないか、ということだ。ヘンリーダーガーは、広告やちらしを切り取り、それらをトレースしたりコラージュすることによって、その作品を作り出していった。もし、この手法が本当であるとするならば、彼の作品自体は、広告やちらしという、いわば社会的な時代背景と切り離せず、そしてそれらがフェティッシュな欲望を誘う、ということと裏表ではないとは思う。同様な手法は、Pixivという、イラスト専門のSNSにも良く見られる。もちろん、彼らは愚直にヘンリーダーガーのように、トレースやコラージュをしている、というわけではない。だが、その作品群を見るたびに、ヘンリーダーガーのことを思い浮かべてしまう。もし、ヘンリーダーガーが、現代日本に生きていたとするならば、彼はきっとアニメ絵やゲームをトレースしていただろう。恐らくは、彼らの作品が日の目を浴びることは、恐らくは無いだろうけれども、しかしそのような作品を見るたびに、表現するということの幸福と素晴らしさを実感して感謝することが多々ある。
文章を「てにおは」レベルで間違えるというのは致命的だと思う。俺自身も適当に文章を読み散らかしている人間だが、「てにおは」「接続詞」「漢字の書き間違い」で間違えるとなると、やはり根本的に向いていないのではないか、自分が知性的に劣っているのではないか、というような悲しさに襲われてしまう、というのがある。そういう些細でかつ重大な失敗を繰り返していると、謙虚にはなるし、謙虚を通り越して、自分の劣りに絶望的になってしまうのであるが、そう愚痴っても仕方はなく、何度もやり直していくしかない。
昔から計画を立てることは苦手であった。いや、計画を立てるということは出来るのだが、それを如何に成就させるか、修正するか、持続させるか、破綻した場合はどうするか、ということに関する粘り強さが無かった。それは自分の力量不足であり、または運の悪さでもある。後者で切断するのは精神安定上にはいいのだが、自分の成長にはならないため、前者が基本的に多いということにしている。
ただ、偶然に、たまたまに出来ていったものが自分の見知らぬ方向で面白くなっていくという経験は圧倒的に面白い。例えばサイトでダンスしているロボット君は、Twitterというサービスで出てきたときには、落書き程度に動かしてみましたという奴だが、「かわいい、かわいい」と言ってもらえ、自分でもおだてられるとバカなので調子にのってアニメーションで動かしてみたら、いつのまにか定着してしまい、自分もロボット君に対して愛着を持てるようになっていた。そういう風に、偶然に生まれたものを、ちゃんと面白いね、といってそれをやれるという意味では、俺は運がよかった。そして、自分は自分の文章を面白いと思えるだけ幸福だったのだ、と思うことはある。
そういえば、「〜〜するべきだ」という、語尾が「べき」で終わる文章というのは何処となく自己啓発を思いうかべ、そうだよな、本当は皆「自己啓発が好きなんだよな」とか思ったりもする。「べき」の裏側にある言葉というのは、多分「それをしたくない」という欲望であるわけで(もしそれをやりたいとするなら、その場合の語尾は「べき」ではなく「する」になる)、しかし何かしらの理由によってそれはしなければいけない、という動機付けというか、欲望の部分が必要であるんだよなとは思う。
いまさらタグ打ちこみでテキストを打ちこんでいると、ふと気がつくのは、昔は誰もが「言及されるため」に、色々と手段を尽くしていたのだな、ということであり、逆に言及ばかりされると、今度は何処かに引きこもりたくなるという贅沢さであるよなという気はする。もしかしたら、今度は「言及を気にしないため」にテキストを打ちこむ人も出てくるのかな、という気はする。
認知が狂いだすと、「事実」以外の言明が出来なくなる、みたいな話を誰かと記憶したことがある。例えばデータだったり、あるいは文章であったり、そうとしか言いようが無いことの発話表現しか出来なくなると聞く。その理由は大体想像はついていて、責められたり、間違えていたりすることに対する過剰なリスキーさを抱え込んでしまう、という側面なのだなと思う。
何かしらの行為を、他者の配慮という結果によって意味づけする場合、その行為を受ける他者がその行為に対して如何なる意味を持ちうるのか、ということは基本的には不可能であるだろう。例えば、『やさしさの精神分析』大平健が例示で出しているように、老人に対して席を譲るという行為を出した場合、その老人がそれに対して感謝するか、それとも「私はまだそんなのを進められるほど老いていない!」と怒り出すかは、その時点で決定が不可能である。もし、この矛盾を解決するためには、基本的には(1)その行為自体を目的と置くか(怒るか、感謝されるかはともかくとして、「私は席を譲る」という方法こそを目的とする)、(2)その行為の全体を道徳というコードで同定するか(老人が席を譲るのを見て怒り出す、ということは、老人が道徳コードから外れているのであり、むしろ怒り出した老人が非難されるべきである、とする)、あるいは(3)感謝される可能性を、怒り出す可能性と比較してより価値の重点を置くとする操作が必要であるだろう。
これらの(1)から(3)に対して、確信を持てない場合、そのやさしさ、つまり「他者に配慮せよ!」という命令の為に、彼らはそこから撤退していく。なぜならば、その行為が他者に対して感謝されるという目的を持つ以上、もしその結果が失敗する場合のほうをよりリスクの高い状態として思うならば、「感謝されることが確信を持つことができない」以上、その行動にうつすことができない。また、彼らの「やさしさ」という言葉が、「反やさしさ」との隣接概念によって、「他者を傷つけることがない」ということであるならば、もし「やさしさ」を意図した結果として、「反やさしさ」が生まれてしまうという結果に恐怖するしかないだろう。